トイレノ花子


 大岩花子(二〇〇一年に溺死。死亡当時九歳)一時、事件性も考慮した警察だったが、近隣証言、現場状況、検視から考え、用水路に誤って落ちたことによる事故死として結論づけられた。

 低い植え込みの先には刈り込まれた芝生があり、芝生の中程には岩で組まれた造園の小さな滝があった。岩の割れ目からは人工の水流が一本流れている。芝生を区切る一番奥の植え込みを越えるとアスファルトの舗装路。その先にはグラウンドがあり、ドッジボールをやる低学年の群れが小さく見える。
 なるべく悟られない仕草で理科室前の側溝に小便をした君の額にひと滴、雨だと思って少し顔を上げると体育館に繋がる廊下で唐突に女子の笑い声が聞こえた。咄嗟に体を小さくたたむ君の全身の熱気はそれでも外見から十分に判断できた。サッシを触った砂っぽい手を半ズボンで交互に拭うその間、意思とは関係なく、君の放物線は不規則に揺れ続けたままにある。
 どうしても学校の便所を使うことができなかった君に質問。
「何故かって? そりゃ、花子さんがいるからだよ」
 不思議に思う君。そして、みんなに訴えかける君。
「クラスのみんなは何故、花子さんを気にしてないの?」

 そんな小学校も地域学区の統合で、君が大学に入る前にはなくなってしまった。大人と言われる年齢になった君は自宅から二駅離れた場所にアパートを借り、学校を追い出されたわたしは君のアパートへまんまと転がり込んだ。
 わたしと便所に二人きりになっても平気でいられるようになったのね。そして、便座に座った君の前に向かい合ってしゃがむわたしの手を求める。
「随分とひたひたすべる君。でも、わたしは玩具じゃないのよ」
 乾いた岩肌が少しづつ潤され、やがて内部へ溜めきれなくなった水分が幾筋もの細い糸となって辺りをつたい始め、「バレなきゃいいよ」と言った君の吐息がかかる。
 額にかかった滴が雨だったのか、滝の水だったのかの答えを君はまだ見つけてはいないようね。けれど、わたしを突き落としたときの感触は今もその手の中にあるでしょ?
 校舎を分断する程大きくなり勢いを増した滝はわたしの、背中にある君の手の感触をいつしか洗い流してくれるのでしょうか。それとも、呪い殺す方が先なのでしょうか。


カラス売りの少女


 市場町に越して半年。最初、彼女に会ったとき、下心がなかったと言えば嘘になる。実家にいたとき、たまに宗教の勧誘がきて、うまく断れずに話を延々と聞くだけで気苦労してしまい、二、三日気分が陰鬱になることも多かった。神様、どうか俺を救って下さい。

 カラスの肉は実にうまかった。何か特別なレシピがあるのか尋ねると、その家、その家でストックしてある食材が違いますから毎回アレンジのようなものです、と彼女は言う。灰色の世界がやがて黒になり、あぁ、この味だ、この味だ、カラスとは初対面なのに昔から知っていて、知っているにも関わらず探し求めていて、やっと見つけた。そんな味である。

 月一程度で彼女はカラスを売りにきた。違法性がどうのこうのは調べても不明で、だから、大家にそういうこと聞くもんじゃないと勝手に判断した。というか、後ろめたい味であったのだ。デートに誘ったのは、三回目のカラスのあとであり、デートは午後から雨になった。俺のジーンズやカラスのスカートの裾が雨を吸って、それが心の重みと同じ重さになってデートは消滅。それから、二、三日気分は落ち込んだ。

 ある日突然痩せたのではなく、日に日に少しずつ、だから気付けなかった。どうした、と聞いてもカラスは口ごもり、どうしても触りたくて彼女の髪に手をやったら、髪はずしりと下に落ちた。
 咄嗟に頭を手で覆う彼女。沈黙するだけの俺。窓の外にはカラスが鳴く。

 排卵って、本当に卵出るの知ってた?
 俺の見ている前で彼女は卵を産んでくれた。これ、受精卵じゃないから、今朝の朝食にするね。
(そのときの俺は女の体のことよく知らなくて、彼女が青い卵を産むことに何の疑問も持たなかった)
「痛くないの?」
「平気、ちょっと重い感じあるけど」

 黒い世界が灰色になり、痩せた彼女の髪が床に落ちて、それだけ見ると鳥の死骸のようでもあるウィッグ。俺の手の中の彼女の骨がきしむ夕刻にカラスが泣いて、俺も泣いた。
 今度は俺が料理するからさ。別れ際、彼女は何もなかったかのようにウィッグを着ける。お互い崩れた気持ちを繕うように顔だけは笑顔を作る。

 市場町で五年、新しい職場にも慣れ、青果担当を任されるようになった。俺がカラスを食べ尽してしまったのだ。今更ながらそう思う。今の彼女はカラスのように青い卵を産むことはない。雨があがると空を見上げた。雨は嫌いであるが、できた水たまりは好きである。


乾電池 月末月旅行


 自転車に乗る女はあの女に似ていた。

 光速バスから降りてトイレへ駆け込む。手鏡と歯間ブラシで乗車中ずっと気になっていた繊維を取り除く。
 隣の個室に人の入る気配。
 カラン。また、カラン、カラン。
 手鏡を使い足下の隙間から隣を覗くと和式便器に乾電池の落ちるのが見えた。ぼとぼとぼとと十数個の乾電池が連続してぬると出るその流れに息をのむ。
 排出された乾電池はビニル袋に入れられた。私は慌てて後を追ったが、誰がその人であったのか判別はできなかった。

 窓側のシートに深く座りシートベルトを装着すると肛門がわずかにむずがゆい。ほおづえついて車窓の景色を見やる。雨はまだ降らない。私なら乾電池は持ち帰らず、サービスエリアのごみ箱に捨てるであろう。あそこのごみ箱がトイレに一番近い。
 隣に乗っていた女性客が時間ぎりぎりで駆け込んできた。
「一本当たったんです」
 女はそう言い、缶コーヒーを私に差し出した。私より少し若いくらいの女。
「サンキュー」
 受け取り際に、女の匂いを嗅いでその後すぐ深呼吸をする。煙草くさい。女と煙草の匂いが入り乱れる。

 目をあけるとタイヤと路面の摩擦がなくなり、音の遮断された世界に落ちた。既に月か、いいや、まだ高速道路の上である。異空間にいる錯覚の中、対向車線には選挙カー。忘れた期日前投票をバスの中から悔やんでも無駄であることは承知。空を占拠する二羽のカラス。あの議員は乾電池を捨てた。そう考えると議員の滑稽さに説明がつく。選挙とは滑稽なものなのだよ。分かったフリするなよなオマエ。窓に映った自分の顔は知らない顔に見えた。

 彼女は新宿で降り、新宿は私にとって通過点。ここから月までノンストップ。光速でやがて福島へ、そして熊本へ。それぞれ滞在は一時間。熊本から月へ向かうための準備に二時間、月から太陽を周回してまた熊本へ戻り、新宿へ。
 新宿で乗り合わせた女は手にポーチを持っていた。月旅行。日帰り。月のモノ。手には缶コーヒー。呪文のように唱えると女は私の隣に座った。

 自転車の女はバスで乗り合わせた女に似ていた。女はイヤホンを付け、歌声に合わせた振り付けの手放し。朝曇りのアサ。そのツンと抜けた鮮やかな背筋に私は紅潮する。月へ向かおう。その勢いならきっと行けるさ。私も後を追おう。二人で缶コーヒーをのもう。

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包み


 俺は、自分の住むアパートからなるべく遠い、それも、今までに行ったこともないコンビニを探していた。理想を言えば市外が良かったんだが、そういった目的が逆に場所を特定する要素にもなると思ったのでそれはやめ、目的を持たないためにも、ラジオから流れてくる普段聞かない情報番組が終わるまでひたすら走り続けた先にあるコンビニに捨てることにした。
 たどり着いた先にあったコンビニに捨てた俺は、ナビの道案内に頼り帰ることにした。ナビに頼らないことももちろん考えたさ。ただ、ナビに頼らず、俺自身が道を探しながら帰ってしまうと、道標などの記憶が何かの拍子に思い出される場合も考えられる。そうなるとまずい。だから、機械的にナビに任せて俺はただその指示に従い、最後はルートを消去することにしたんだ。これで、捨てたコンビニを特定することは難しくなる。ナビの指示に従い、俺はそれ以上何も考えない。不必要に景色などを見て、場所を判断することもできるだけ避ける。帰りのルートは複数に分割する。ルート毎の目的地は大手四社のコンビニとし、それらをランダムに選択することも忘れないでおこう。その際、最短コースだけではなく、遠回りのコースもルートに含めよう。コンビニからコンビニへとルートを設定して、その都度、使用したルートは消去しながら帰る。そういった回りくどい方法を使い、三時間かけた俺は最後のコンビニで缶ビールを買った。
 しかし、一体、どうなってるんだ。あまりの動揺に俺は、あたふたしながら車のドアを閉めた。会社を出てから既に六時間は経過している。ということは、俺が包みを捨てたことは時間的に考えても間違いはない。辺りはすっかり暗くなっていたが、全ては順調のように思われた。これでやっかいなものは消え去った。 何事もなかったんだ。捨てたという記憶さえ忘れてしまえば。そして、日々を平穏に過ごそう。そう思った矢先だった。
 包みは確実に捨てたはずである。今のはきっと見間違いに決まっている。ここにあの包みがあるはずないではないか。馬鹿げてるよ。そう、長旅の疲れのせいだよ。時間をかけて深呼吸を繰り返し、気を取り直した俺はもう一度車のドアを開けた。でも、そこにはやはり包みがあった。包みは捨てたはずである。けれども、包みはそこにあり、しかも、指が一本入るくらいの大きさで端がやぶれているではないか。これはまずいと思い、俺は再びドアを閉めた。